町長日記(令和7年)
7月の出張(令和7年8月号)
暑い日が続く中、7月は3度出張に出かけた。10日から11日にかけては、札幌で開催された北海道てん菜振興自治体連絡協議会総会、北海道自治体情報システム協議会臨時総会、全道市町村長交流セミナー、北海道備荒資金組合議会定例会、そして防災・危機管理トップセミナーに出席した。
25日は、同じく札幌での北海道横断自動車道北見網走間建設促進期成会北海道要望とオホーツク圏活性化期成会北海道要望活動に出席した。29日から31日にかけては、東京都内の企業回りのほか、オホーツク圏活性化期成会中央要望、横断道北見網走間建設促進期成会中央要望活動にそれぞれ出席した。
10日に開催された市町村長交流セミナーでは、久しぶりに藻谷浩介氏の講演を聞いた。藻谷氏の著書には『デフレの正体』や『里山資本主義』などがあるが、津別町には、平成31年2月、まちづくり会社設立に向けた事業内容説明会での基調講演を行っていただき、出資金まで頂戴している。
今回の講演テーマは「誰も言わない北海道の実力と、今後の戦略」と題し、時折クイズを交えての講演だった。北海道はニュージーランドやアイルランドとほぼ同規模で、世界196ケ国中、上から3分の2に入る。人口減少が進むが日本の人口は世界で12番目。2050年には中国などは大変な人口減社会となるが、日本はその頃すでに再生の道を歩み始めている。
物事は数字をベースに考えるべきで、皆が言っているからなどいうのは論外。麦は多くを輸入に頼っている。ならば品質の良い北海道産の麦を増産すべき。日本にとって貿易黒字国は米国や中国などだが、逆に赤字国は観光立国であるイタリアとスイス。それは何故なのか。数字を通して実態に迫ろうという。すでに昭和と平成は終わったが、まだ頭の中が昭和であってはいけないとも話された。
運動会(令和7年7月号)
5月24日に津別中学校、6月7日に津別小学校の運動会が行われた。どちらもじいちゃんとして見学したが、随分子どもの数が減ったなという印象を受けた。
人口の多かった昭和34年当時の生徒数は、津別中学校が596人、津別小学校が1,444人だった。現在は中学校が83人、小学校が145人である。
わが子を応援する親たちの場所取りが凄まじかったあの頃を思い出す。仮に1人の生徒に少なくとも3人が応援に来たと仮定すると、中学校は1,788人、小学校は実に4,332人がグランド狭しとゴザやビニールシートを敷きつめ声援を送っていたことになる。
昼には、家庭で作ったおにぎりやのり巻きを食べ、渇いた喉にサイダーを流し込んでいた。時代が進むと焼肉をする家族も見られるようになり、グラウンドの脇には露店も出ていた。今、こうした光景は全く見られなくなった。それもそのはずで、子どもの数が圧倒的に少ないため、運動会は午前中で終了してしまうからである。
小学校の種目に「ヤングマン」の曲で踊るダンスがあった。原曲はディスコグループのヴィレッジ・ピープルが歌う「YMCA」で、昭和53年に発表された。その年は、アメリカに研修旅行に行っていて、マサチューセッツ工科大学近くのディスコバーで流れていた記憶がある。翌年西城秀樹がこの曲をカバーして大ヒットしたが、それから46年。今もこの曲が使われていることに感慨を深くした。
昭和51年には農民運動会、商工運動会、労働文化祭体育大会が統合され、「町民運動会」が始まり、町は大いに盛り上がった。しかし、平成4年の台風災害を機に、第17回大会をもって幕を閉じた。
見てきた景色は世代によって異なる。昭和34年当時の様子を記憶している人にとっては寂しい限りだが、今の生徒たちにとっては、現在の景色が出発点になる。
機械仕掛けの太陽(令和7年6月号)
これは、医師であり小説家である知念実希人の本の題名である。医療従事者から見た新型コロナウイルスとの戦いを題材にした医療小説で、コーチャンフォーのおすすめコーナーに置かれていたので買ってみた。
物語は、子どもをもつ女性医師、商社に勤める男性と結婚を考える女性看護師、そして医者の息子をもつ高齢の町医者が三者三様に、変異をくり返すコロナウイルスに翻弄されながらも向き合う物語である。感染に怯えながら、争ってワクチン接種に列をなしたあの当時が思い出される。
読後に改めて考えさせられたのは、市民の側からの視点ではなく、「バイ菌」と呼ばれながらもコロナと対峙した医療従事者の目線だ。自らも感染の恐怖を感じつつ、急ごしらえのコロナ病棟での様子に息が詰まる。治療してもらう側ではなく、治療する側の心の動きがリアルに表現されている。
さて、かつて町立だった特別養護老人ホームを、社会福祉法人恵和福祉会に譲渡して早10年が過ぎた。この「いちいの園」は、町の開基百年記念事業の一つとして、約5億円をかけ昭和58年1月に完成した。しかし、42年の歳月を経て老朽化が進んだ。そのため、法人は今年設計に着手し、令和8年と9年の2カ年で、ケアハウス横に移転新築することとしている。
現在の「いちいの園」は、多床室で扉もない。当時は開放的なものだったに違いないが、コロナ禍では不都合が生じた。入所者はもとより、そこで働く人たち、その家族・親戚が感染の危機に陥る。実際クラスターと呼ばれた集団感染が全国で発生した。
現在計画されている新しい特養は、すべて個室とされている。高齢者にとって感染症は怖い。そして、そこで働く人たちとその家族の安全安心が確保されなければならない。その対策の一つとしても個室化の意味は大きい。
小林相談役安らかに(令和7年5月号)
3月28日と29日の両日、小林ニットウエア株式会社相談役(元社長)小林寛樹氏の葬儀が、山梨県南アルプス市内の斎場でしめやかに執り行われた。
津別町史によると、昭和60年以降の急激な円高を背景に、日本の製造業は中国や東南アジアに拠点を移しはじめ、地方への企業誘致活動は困難を極めていた。そうした中、昭和63年、北海道東京事務所から小林ニットウエアが新工場の候補地を探しているとの情報が寄せられた。そしてその後、九州2県、東北3県、北海道内8ヶ所の候補地の中から津別町が選ばれた。同年10月27日のことである。
津別工場は、現在の消防庁舎が建つ前にあった郷土館を改修し、新高卒女子23名を含めた30名体制で開業した。創業式典は平成元年6月4日に行われ、工場名は「株式会社Kニットツベツ」とし、当時社長だった小林寛樹氏の弟小林幸夫氏が社長に就任された。式典後の懇親会では、町内のスナックのママさんたちがコンパニオンとして場を盛り上げた。
小林寛樹氏の自叙伝『私の歴史書』に津別町を選んだ理由について、津別高校の卒業生が年30人ほどいること、隣町の美幌町に普通高校と農業高校があり60人以上の卒業生がいること、ドイツの田舎に似ていて北の大地にファッション基地をつくる夢が湧いたこと、北海道は繊維産業に対する既成概念がなく思い通りの経営が可能などと記されている。
平成4年には現在の工場を増築し、従業員数は48人となったが、バブルがはじけ平成15年に津別町での営業を終えた。しかし、平成21年2月、津別町への再進出が決まり今日に至っている。撤退の際に小林幸夫社長は謝辞の中で「これで縁が切れたとは思っていない」と述べその通りになった。
かつて小南町長は昭和57年12月の町長日記で、内陸の津別は甲斐の武田に似ているとし、平成元年3月の町長日記では、津別こそ道東の甲斐になると記していた。
18の春(令和7年4月号)
3月1日、津別高校体育館で第75回卒業式が行われた。卒業生18人の進路はすべて決まっていた。大学進学7名、専門学校進学4名、就職7名で、その目は同級生との別れと未来への希望が交錯しているように見えた。
大学に進学する卒業生の専攻は多彩で、北見工業大学環境工学科、釧路公立大学経済学科、藤女子大学英語文化学科、札幌国際大学スポーツビジネス学科、北海道医療大学薬学科、北海道科学大学建築科、日本医療大学診療放射線学科である。この3年間、先生の指導はもとより、公設民営塾での学習サポートが、役に立ったのだろう。
今回の卒業生が入学したのは令和4年。この年はまだコロナ禍にあって、オミクロン株が猛威を振るっていた。翌令和5年5月に5類に分類され、以降、人の動きは活発になっていった。3年間コロナ禍での学校生活を余儀なくされた世代は、本当に気の毒だった。今年の卒業生は、ほぼ1年窮屈な思いはしたが、その後は解放感を味わったことと思う。
卒業は新たなスタートである。よく自分探しを続ける人がいるが、まずは迷わずに、最初に選んだ道をしっかり歩んで欲しい。そしてキャリアを積み、さらにステップアップして欲しいと思う。
厳粛な卒業式の会場には、大学を選んだ卒業生、専門学校で美容師や動物看護士を目指す卒業生、地元丸玉木材や加賀谷木材に就職する卒業生、ホテルや空港で働く卒業生、自衛官として国を守る道を選んだ卒業生など、一人一人が壇上に上がり、校長先生から卒業証書を手渡された。18の春、この先人生に良い影響を与えてくれる素晴らしい人との出会いがあることを願う。
「学事報告」には楽しそうな写真が多く載っていた。皆が良い思い出をつくったことが伺えた。そしてまたこの春、17人が入学すると聞いている。
まちなか再生事業(10)(令和7年3月)
昨年11月、これまで町長室から見えていた風景がまた一つ変わった。町長室は正面玄関に向かって右手、二階の端にある。ここから大通棟(ウッドリーム)や幸町棟への人の出入りがよく見える。サツドラが入った幸町棟ができ、賑わいは一段と増えた。
平成30年7月に「津別町複合庁舎建設等まちなか再生基本計画」が策定され、町民の利便性の向上とまちなかの賑わいを目指した。この計画づくりに、町は複数のコンサルタント会社に提案を依頼し、5社より独自のアイデアをまとめた事業提案書が提出された。その後、町民が傍聴する中でプレゼンテーションを実施。それぞれの提案内容を審査委員会が慎重に検討し、最終的に「フラノマルシェ」の計画にも携わった実績を持つコンサルタント会社を選定した。いま、計画が策定されて6年が過ぎ、役場、ウッドリーム、幸町棟が順次建設され、6つの計画ゾーンの内メインとなる2つのゾーンが完成した。ここに至るまでに実に様々な出来事があった。
よく結婚式の祝辞で、「人生には三つの坂があります。一つは上り坂、二つ目は下り坂、そして三つめは「ま坂」です」と話される。これは松下電器(現・パナソニック)の創業者である松下幸之助氏が使った言葉と言われている。この「まさか」が、それぞれの建物の建設を巡って都度現れ立ちはだかったが、諦めれば町民の希望は叶わない。この「まさか」が現れるたびに後押しをしてくれた人たちがいた。そのすべての方々に感謝を申し上げたい。
昨年11月末に津別町の人口は4000人を割った。しかし、人口減少はすでに織り込み済みで、減少曲線を緩やかにするための取組の一つとして「まちなか再生基本計画」を実行に移している。
2月8日には、平成27年から10年の年を経て国営農地再編整備事業が完了し、祝賀会が催された。受益面積2433ha、受益戸数120戸、総事業費174億円のかつてない大規模な土地改良事業が終了した。1次産業が振興し、定住に結びつくことを期待したい。
まちづくり懇談会中止(令和7年2月)
毎年、自治会や各団体の協力を得て、主に10月下旬から12月上旬にかけて、まちづくり懇談会を開催してきたが、今年度は残念ながら中止させていただくことにした。
10月中旬に入院し、退院後はすぐに日常に戻れるものと考えていたが甘かった。10キロ近く瘦せたせいもあり、ふらつき感がとれず、また寒さにも弱くなった。加えて、昨年12月に5期目の中間点を折り返したが、4期目後半から、全道・全国組織の役職が増えはじめ、津別町を留守にすることが多くなった。そのため、自身の健康状態と今年3月までに予定されている業務日程を照らし合わせると、12~15カ所ほどで行うまちづくり懇談会は開催困難と判断した。
12月議会の一般質問で、懇談会中止にかかる経緯について、質問に立った議員がおられたが、平成19年から毎年続けてきた町長としてのルーティンが途切れてしまうことは残念とお答えした。
住民の声を対面で聞くまちづくり懇談会という政治手法は、故小南甲三町長が行っていた「町政懇談会」を参考にさせていただいたものである。平成19年4月16日に、東岡での開催を初回として、令和5年10月20日までの間に、計285回開催させていただいた。
町長日記で「まちづくり懇談会」を取り上げるのは今回で4度となるが、平成24年1月号で、町民からの質問意見で圧倒的に多いのは、道路整備、除排雪、草刈が三大要望と記したが、これは今も変わっていないように思う。これらに対し、町ではできる限りの対応を行っているつもりだが、当時と比べると作業を担う人の確保がかなり難しくなってきた。そうした中、黙々と作業を担う方たちへの感謝の気持ちは、なくしてはならないと思う。
今年は懇談会を再開したい。開催時期は、話し合いたい大事な案件が、もう少しまとまってからと考えている。
入院記(令和7年1月)
昨年8月、心臓の検査で異常が見つかり、10月に半月ほど札幌の病院に入院し手術を受けた。9月末に津別町で全国まちづくり交流会が開催されることから、これを終えて入院しようと考えていた。
循環器内科と外科を専門にするこの病院は、待合室はもとより一階にある種々の検査室前の廊下は人で埋まっていた。三階の病棟に入院したが、手術後のICUを含めて退院までに5回病室が変わった。それだけ患者の出入りが多いということなのだろう。
半月というこれまでにない長い入院生活は、いろいろなことを考える貴重な時間だった。手術前の1週間は24時間点滴で体の調子を整える期間にあてられ、この間に何冊か本を読んだ。中でも、この機会にと持ち込んだ『津別町史』は、改めて津別町のことをきちんと知るいい機会になった。隣のベッドの方から「大学の先生ですか?」と尋ねられ照れた。また、看護師さんからは「難しい本読んでますね。私が生まれた町にもこんな歴史本あるのかしら。いろんな人の名前が出てくるんですよね」と聞かれた。改めて『津別町史』を読むと、一部自分の歴史認識が思い込みによるものだったり、また新たな発見もあった。
それにしても、入院患者は自分を含めてほとんどが高齢者で、いろいろな人がいた。看護師さんに偉そうな口調で喋る人、リハビリ中理学療法士に昔のことをずっと喋り続けるおばあさん、ベッドで天井を見ながらじっと何かを考えている老人、頻繁に携帯電話で外部と連絡を取り合っている管理職風の人など実に様々だった。
昨年夏、オホーツク管内の首長と議長で国への要請活動を行ったが、班分けで私の行き先に厚生労働省が含まれていた。その際、がん対策室長から住民にがん検診を受けるようPRしてほしいと逆に要請された。受診は恐ろしいが、早期発見が寿命を延ばすコツのようだ。
更新日:2025年01月31日