町長日記(令和5年)

更新日:2023年12月01日

久しぶりの台湾訪問(令和5年12月)

平成24年10月8日、二水郷役場庁舎で友好都市を締結して11年。コロナもひと頃より落ち着いてきたことから、私と議長を含む一行10名で二水郷のビッグイベント「跑水祭」に参加した。
11月3日から7日の行程で訪台したが、気温は毎日30度を超える厳しい暑さだった。出発日は女満別空港から新千歳空港を経て桃園国際空港に到着した後、専用バスで一路台湾中部にある台中市へと向かった。ホテルに着いたのはかなり遅い時間になった。
翌朝、専用バスとその日だけ走る記念列車を乗り継ぎ、二水郷へと向かった。会場は多くの店が所狭しと出展しすごい人出だった。津別町をPRするために用意した半纏は、迷子にならないための目印になった。野外特設ステージでは、まず県知事と通産大臣の挨拶から始まったが、いずれも女性で大変エネルギッシュな挨拶だった。この場で私と議長が紹介され会場から拍手をいただいた。
この後、股までのゴム長靴に履き替え、豊作を願い川の中を行進し、ゴール近くでバシャバシャと音を立てて走らされた。その川で、以前津別町に天燈作りに来たことのある消防士とも再会できた。郷長の配慮で用意された昼食会は、小学校の屋外テントで行われたが、日本のお盆のように帰省していた大勢の方たちとともに、ご当地の料理をいただいた。
その後、チョコレートづくりのプログラムが用意され、そこで二水郷観光協会の女性に会った。今年の「つべつ七夕まつり」の際に行燈に貼る絵紙を送っていただいたお礼に、雪だるまの人形をプレゼントした。その女性から、いつも町長の「ブログ」を読んでいますと言われ、町長日記のことかと気づくのにやや時間がかかった。
来年、二水郷は16名の訪問団を予定しているという。いつの時期がよいか教えて欲しいと言われ、喜んでもらえる訪問にしたいと思う。

児島仁氏お別れの会(令和5年11月)

9月29日、東京帝国ホテルで行われたNTT第3代代表取締役社長児島仁氏のお別れの会に出席した。児島氏は昭和5年北海道深川市に生まれ、昭和28年北海道大学法経学部を卒業後、日本電信電話公社に入社された。その後、昭和60年の民営化に向け職員局長としてご尽力され、平成2年に代表取締役社長の任に就かれた。
児島氏と津別町のつながりは、奥様が津別町に所縁のある方だったことに由来する。児島氏は平成8年に取締役相談役となり、当時の高瀬町長とどのような経緯でお会いになったのかは承知していないが、お二人の間でラグビー合宿の話が持ち上がったと聞く。
当時津別町は、平成3年にまちづくりの期待を担う株式会社コクドによる津別スキー場が完成し、アルペンスキー大会や合宿が積極的に行われていた。合宿による経済効果もあり、夏の合宿誘致にも目が向けられていた。児島氏とのつながりから、多目的運動公園にラグビー場とサッカー場を整備し、平成10年夏からNTTコミュニケーションズ、豊田自動織機、筑波大学のラグビー合宿が始まった。児島氏との出会いがなければ、この事業は実現できなかったのではないだろうか。
児島氏は大学時代にラグビー部に所属していたこともあり、「一生、ラグビー中毒は治るまい」と称し、社員の同好会から始まったラグビー部をプロリーグに参入できるまでに力を尽くされた。昨年から日本のラグビーを牽引してきたトップリーグがリーグワンに替り、開幕戦のスタートが1月になったことから、直前の合宿は難しくなった。お別れの会の出席者から、来年の夏は参加人数を絞って合宿し、変わった津別の様子などもぜひ見てみたいとの話もされたことから期待を膨らませている。
児島氏は生前津別町にお墓を建立していることから、遺骨の一部を津別町に納骨する話も伺った。

長く暑い夏(令和5年10月)

9月1日、気象庁は今年の夏の全国の平均気温が、1898年(明治31年)の統計開始以来最高だったと発表した。原因は、地球温暖化に加え、日本近海の海面水温が高かったこと、7月に本州付近への太平洋高気圧の張り出しが記録的に強まったことなどとされている。こうしたことから猛暑日が長く続くことになった。
世界に目を転じても、いたるところで記録的な高温となり、アメリカ航空宇宙局は、7月は観測史上最も暑い月になったと報じている。また、国連のグテーレス事務総長は「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が来た」と記者会見で述べている。
北海道も猛暑が30日以上も続き、熱中症警戒アラートもよく発出された。そしてエアコンをはじめ、夏の商品の売り上げ増が長く続いた。
学校にエアコンがなく臨時休校になったり、オンライン授業に切り替えたとの報道もよく耳にした。津別町の学校のエアコン設置状況はどうだったかというと、既設のものの他、令和2年度に新型コロナウイルス感染症対応交付金を活用して、小学校に14台、中学校に10台設置した。加えて令和3年度から4年度の2年間で行った小学校長寿命化工事に合わせ、20台を図書室や理科室などにも設置し、総額4100万円ほどを要した。こうしたことから、子どもたちは今夏の猛暑の影響を受けずに済んだ。
来年以降も長く暑い夏が続くのだろうか。元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏は、著書『2040年の未来予測』で、「気候変動がもたらす不安や連鎖反応が最悪な展開になることは広く知られている。気温と暴力の関係を数値化する研究によると、平均気温が0.5度上がるごとに、武力衝突の危険性は10~20%高くなるという」と書いている。温暖化と戦争に因果関係があるようだ。

青少年交流再開(令和5年9月)

新型コロナウイルス感染症の影響でさまざまな交流がストップしていた。今年の5月8日から感染症法上、危険性が最も低いとされる5類に分類されたことから、徐々に交流が再開され始めた。船橋市と南アルプス市との青少年交流もその一つである。
7月31日から8月2日にかけ南アルプス市の小学生と指導者25名が4年ぶりに来町した。続いて8月6日から9日には船橋市から38名がやって来た。南アルプス市の一行とは、東京での要請活動に参加していたため残念ながら会えずじまいだったが、船橋市の一行とはジンギスカン料理などでもてなす歓迎会に出席できた。
船橋市との青少年交流事業の始まりは平成元年で、小学生86人、中学生123人、指導者47人の計256人が、8月17日から23日の6泊7日の行程で来町した。この年は中国で天安門事件が起こったため、船橋市はそれまで行っていた中国との交流を見合わせた。その代替地として、津別町から離農され船橋市に住まわれた方と、船橋ポートライオンズクラブのご尽力により津別町が選ばれた。
256人の受入れはホームステイが中心で、当時下水道工事が進められていたものの、まだ未設置の農家の方々の受け入れ協力に、当時の小南町長は深く感謝したに違いない。あれから35年、交流は途中3年間コロナで途絶えたが、明日を担う子どもたちが空間を超えて交流を深めることは、大変意義深いことだと思う。
南アルプス市との交流は、合併前の旧櫛形町から繊維企業が津別町に工場を開設したことをきっかけに、平成6年10月に友好都市を結び、翌平成7年8月に中学校野球部員など、一行51名が来町したのが始まりである。その後、南アルプス市とは姉妹都市となり、職員の相互派遣も行ってきた。職員交流は、今後船橋市ともできないものかと市長に伝えている。

第50回つべつ夏まつり(令和5年8月)

例年7月第1週の土日に催される「つべつ夏まつり」は、今年50周年を迎え、7月第3週の15日と16日に開催された。
今回日程をずらしたのは、日本ハムファイターズガールの「きつねダンス」を間近に見るためである。夏まつり実行委員会がぜひともと企画し、来町可能な日に合わせた。彼女たちの人気は抜群で、町民の皆さんはもとより、他の市町村からやって来た人たちもノリノリで楽しんでいた。
毎年まつりの会場になる河岸公園は、津別町の観光レクレーション施設の目玉として、昭和41年に津別公園築園期成会と町が中心となり整備に着手し、以降20年に及ぶ整備が続いた。
つべつ夏まつりの前身である第1回「河岸公園まつり」は、昭和46年8月に観光協会と商工会が主催して開催された。
当時の様子を津別新報はこう伝えている。「日曜日、晴天に恵まれてか、家族連れがどっと繰出し、正午ごろには二千人の人出を数えた。広い公園内には町のエレキバンド、出店四店、写真フィルム社主催の怪獣タイガーマスクほか二体が出現、ときならぬ怪獣に子供の人気は上々…一番目を引いたのは津別町出身の中鉢健二君(大相撲二所ノ関部屋)が顔を見せての土俵開き、子供角力で花を添えていた」。
その後、昭和49年第4回河岸公園まつりから、現在の7月第1週に変更され、昭和56年には観光協会と実行委員会が中心となり、町民参加のまつりへと進展していった。そして、昭和58年には津別産牛肉コーナーが初登場した。
昭和46年の第1回開催から数えると、令和3年が第50回となるが、新型コロナウイルス感染症の影響により開催できず、今年ようやく節目となる50回目を迎えることができた。これからもずっと続いて欲しいイベントの一つである。

まちなか再生事業(9)(令和5年7月)

まちなか再生事業で整備する6つのゾーンのひとつ、コミュニティゾーン内に大通棟が完成した。5月16日には棟内のスーパーマーケット「グリーンマートINつべつ」が先行オープンし、柳瀬社長が開店のあいさつで声を詰まらせていた。施工業者の女性役員、柳瀬社長の奥さん、デザイナーの娘さん3人で東京のスーパーを参考に、店舗にそのエッセンスを注入した。
7月1日には2階の図書館がオープンする。館内の書架やロッキングチェアーを含む椅子・テーブルなどは、2020東京オリンピック・パラリンピックのメダルケースを受注した地元山上木工が制作した。子どもたちが自習するスペースもたっぷり設けられていて、きっと勉強が好きになる子が増えるのではと期待している。
大通棟に隣接する3階建ての旧農協事務所の解体も始まり、10月末までにそこに駐車場が整備される。また、大通棟に付帯するバスターミナルなどの交通拠点は、建物に面する町道を整備して、11月上旬には利用開始される。
これにより現在のバスターミナルは役目を終えるため、待合室を含む旧議事堂が今年度中に解体される。そして来年、この場所にドラッグストアを含む幸町棟が建設され、建物回りの駐車場整備を行い、11月上旬にオープンする予定である。これでコミュニティゾーンの整備がすべて終了する。
このゾーンに隣接する町民サービスゾーンには、2年前に津別町の木を88パーセント使った複合庁舎が完成し、現在庁舎前に小公園と駐車場の整備工事が行われている。10月末に完成する予定であり、これをもって町民サービスゾーンの整備が完了する。
こうした取り組みについては、広報など文字で、住民説明会やまちづくり懇談会など対面で、また、タウンニュースつべつなど映像で伝えているので、ぜひご覧になっていただきたい。

崎陽軒訪問(令和5年6月)

4月20日、シウマイ弁当で有名な横浜市にある崎陽軒本社を訪問した。
訪問のきっかけは、今年2月18日と25日の2週にわたって、道内の首長が順次出演する北海道テレビの番組「ぶっちゃけミエルカTV」に出演したことがきっかけだった。この番組はユーチューブでも配信されている。1月30日に札幌で番組の収録が行われ、スタジオ内で、自分の座る席に津別町の特産品を陳列した。その中の一つ、津別町の木材会社が製作する崎陽軒の弁当箱に司会者と3人のコメンテーターが大きく反応した。
理由を知った皆さんから、「じゃあ津別に行ったら崎陽軒のシウマイ弁当が食べられるんだ」と言われてアッと思った。地元の木材会社と長く取引を続けていることは承知していたが、そことパートナーシップを結ぶ発想は残念ながらなかった。この番組の出演を機に、崎陽軒が津別町のネットワーク内にあることを再認識した。そこで、幾つかの提案を持って本社を訪問したところ、4代目の若社長は快く応じてくれた。
提案の内容は、津別のイベント時にシウマイ弁当の販売は可能か。企業版ふるさと納税は可能か。カーボンニュートラルの一環として津別町が発行するJクレジットの購入は可能か。津別町に「崎陽軒の森」をつくることは可能か。道内唯一の森林セラピー基地と一体になった温泉ホテル「ランプの宿森つべつ」を社員の指定保養所にすることは可能か、など関係を深めるさまざまな提案を行った。
社長をはじめ取締役の方たちは、じっと耳を傾けてくれた。「いろいろありますね。検討してみましょう」ということになった。今回この席を設けるにあたり、シウマイ弁当箱の側の部分を製作する有限会社三共の向山社長に大変お世話になった。この後、提案が一つでも実現されることを期待したい。

台湾二水郷と10周年(令和5年5月)

3月29日、台湾彰化県二水郷と友好都市提携10周年の調印式をオンラインで行った。本来であれば昨年行う予定だったが、コロナ禍とお互いに選挙を控えていたこともあり少し伸びてしまった。
相互の行き来は、元号が令和に変わる平成31年以降行われていない。この年の1月6日に津別中学校2年生6名が台湾を訪問し、二水国民中学校の生徒たちと交流を深め、世界三大博物館の一つである故宮博物院なども見学した。同じくその年の1月、二水郷から中学生7名が来町し、津別中学校の生徒たちとの授業体験や北見市で初めてスキーを体験した。その後、新型コロナウイルス感染症の拡大で交流はストップしたままとなっていた。
今回行った調印式で、コロナの感染が弱まってきたこともあり、訪台は可能になったかを尋ねると、大丈夫とのことだった。そこで、毎年11月上旬に開催される二水郷の大きなイベントである「跑水祭」に合わせて津別町から訪問団を送ることにした。
また、二水郷の中学生たちも津別町への訪問を心待ちにしているとのことで、いよいよ双方の交流が再開される準備が整い始めた。こうした国際交流で、お互いの子供たちの視野がどんどん広がっていくことを期待したい。
二水郷は当初「二八水」と呼ばれ、開墾以来300年以上の歴史を持ち、清の時代に灌漑システムを築き、彰化平野の全面的な開発を促し、開拓の全盛期を迎えた。その後、「二八水庄」と名称が変更され、日本が支配した時代には「二八庄」と呼ばれていたが、戦後、中華民国政府が「二水郷」を設置し今日に至っている。
津別町に、北海道で初めて日台親善協会が発足したのが平成20年1月。更に、北海道で初めて台湾の町と友好都市を結んだのが平成24年10月。今回の10周年を契機に、更なる交流を深めたい。

都心のある過疎地(令和5年4月)

3月定例議会の一般質問で、小林議員から33年前の社会人大学「津別町まちおこし大学」に関する質問を受けた。この大学は平成2年10月に開校し1年半続いた。長崎総合科学大学の日比野先生に毎月来町いただき、物事の発想を司る右脳を開発し、まちおこしを創造的に考えようとするものだった。当時39才だった私が、欠席裁判で学生代表になり、卒業には400字詰め原稿用紙100枚の卒業論文が課せられた。その後、この大学の卒業生から4人の町議会議員と町長が誕生している。
小林議員は、未来の津別町の町づくりに携わるための人づくりが必要だとして、「町おこし大学」を参考にしようと質問された。津別町は町民が自主的に運営する「人づくり・まちづくり活動」に支援事業を用意している。有効に活用しぜひ開校して欲しいと思う。
質問通告を受けて、改めて33年前の「まちおこし大学」全3冊の綴りを開いてみた。開校にあたり日比野先生からの「津別町まちおこし10大戦略」が最初に目に入った。この中の一つに「都心のある過疎地」があった。改めて言葉の使い方にハッとした。
津別町は人口減少が進む中、分散したものをできるだけ中心市街地に集めるコンパクトタウンを目指している。この言葉は過疎地でよく使われる言葉である。「コンパクトにする」と「都心をつくる」では意気込みが違う。「まちおこし大学」は発想法を身に付けることを目的にしていた。そして、言葉の使い方一つで夢が膨らむことも学んだ。
いま、コミュニティゾーン内の建物が、オープンに向けて準備が進められている。来年はドラッグストアも入る幸町棟が建設される。その後、いちいの園の移転と津別病院の改築が予定されている。町の規模は小さくなったが、「都心のある津別町」づくりが着々と進んでいる。

ロングトレイル構想(令和5年3月)

2月4日、釧路市で環境省と国土交通省北海道運輸局が主催する「3つの国立公園とまちを繋ぐロングトレイルについて考える」と題したシンポジウムが開催された。3つの国立公園とは「釧路湿原国立公園」「阿寒摩周国立公園」「知床国立公園」をさす。つまり、松浦武四郎の銅像がある釧路市から津別峠、美幌峠を通り、森繁久彌の銅像がある羅臼町までの約350キロに及ぶ「歩く旅の道」を造ろうというものである。
北大の木村宏先生、世界遺産熊野古道にかかわる多田稔子氏、そして駐日ヨルダン大使リーナ・アンナーブ氏の講演が企画され、拝聴することができた。途中、このロングトレイル沿い周辺の首長とヨルダン大使との意見交換が別室で行われたため、残念ながら熊野古道の話は聞けなかった。随行した職員から多田さんの話はたいへん良かったのでぜひ津別に呼びたいです」と感想を言っていた。機会をとらえて、町民の方たちにもお話をうかがう機会を設けたい。
ニーナ大使からは、30年かけて造り上げた「ヨルダン・ロングトレイルルート」のお話を伺った。見知らぬ人が村を通って行くことにたいへん不安を感じる人が多かったという。しかし、何事も一歩踏み出す人がその町や村に必ずいる。そしてその町の首長がどんな姿勢で臨むのかが大事だと話された。アドベンチャーツーリズムは、コロナの反動から今後伸びる分野だと言われている。誰かが損をするのではなく、旅する人もそこに住む 人もお互いがWinーWinになるよう、大切なのはローカルコミュニティづくりだと話された。
津別町は、ロングトレイル構想のほぼ中間に位置する。いま、津別峠から美幌峠を経由して藻琴山に向かう屈斜路外輪山トレイルルートが整備されつつあり、令和6年に開通する予定である。歩く旅人が町に立ち寄り町民との交流が深まることを期待したい。

2023年成人式(令和5年2月)

1月8日、中央公民館で成人を18歳に引き下げてはじめての成人式が開催された。全国のほとんどの市町村は、これまで通り20歳を対象にし、津別町も「二十歳の成人式」として開催した。式には町内に住所のある人と町外から事前に連絡のあった28人が、それぞれ盛装して家族とともに出席された。ちなみに18歳の対象者は31人、19歳の対象者は22人だった。
私は二十歳の時、京都で学生生活を送っていた。成人式には出席しなかった。うなぎ屋でアルバイトを続けていたためだったのか、背広を持っていなかったためだったのか、過激な学生運動がまだ続いていた時代だったからなのか、それらが重なり合っていたためだったのか、今ではその理由をよく覚えていない。そんな自分が町長になって、毎年二十歳の成人を前に祝辞を述べている。
今年の成人式に出席された人たちが生まれた年、津別町はどんな年だったのだろうか。今は、サテライト型小規模多機能ホーム「夢ふうせんほんき」となった本岐小学校新校舎が落成した年であり、チミケップ湖周辺を走るマラソン大会が、場所を移して第1回つべつ紅葉マラソン大会として開催された年だった。
津別町の人口減少は、高度経済成長とともに「金の卵」として首都圏への集団就職が始まった昭和35年を境に減り続けている。今は医療、買い物、交通、教育、住宅などの問題が複合して減少が続いている。こうした要因を解決しようとさまざまな取り組みを行い、まちづくりを進めている。新成人の皆さんには、いずれこの町にUターンして、まちづくりを引き継いで欲しいと呼びかけた。
そして、「かけた時間がものをいうときが必ずきます。大事なことは継続することです。二十歳を機に、自分の人生に悔いが残らないよう前へ進んでいくことを願っています」と結んだ。

東京都江東区(令和5年1月)

昨年11月、3年ぶりに開催された全国町村長大会に出席した。北海道とは違い東京はまだ秋だった。この日、もう一つ仕事をするためオホーツク町村会長の興部町長とともに山崎孝明江東区長に面会した。
高橋はるみ北海道知事の時代に、振興局単位の14の町村会と東京23区との交流が提唱され、オホーツク町村会はすでに佐呂間町が江東区と交流を行っていたことから交流先をこの区とした。江東区には、地元丸玉木材株式会社の新木場物流センターもある。
6年前の11月、全国町村長大会終了後、オホーツク町村会の町村長全員で、国立競技場が建設される様子をタクシーから眺めながら区役所へ向かった。交流はここから始まった。平成30年には「第11回江東区環境フェア」に訓子府町長、管内各役場職員とともに参加した。このイベントの主旨は「みんなのエコが地球を助ける」だったが、われわれは与えられた2つのテントで、ひたすら特産品の紹介と観光PRを行った。
その後も交流は続き、区議会議員と区役所職員が大空町などを訪問した。しかし新型コロナウイルス感染症の拡大により3年ほど交流が途絶え、目的が薄らいできたこともあり、一端終結したい旨を伝えるため山崎区長に面会した。
区長は4期目の79才で、東京23特別区会の会長を務めている。東京生まれで早稲田大学を卒業後25才から2度都議選に出馬したがいずれも落選。その後、トラック運転手や国会議員の秘書などを経て区議会議員、都議会議員として活動。現在は区長の任についている。江戸弁がなんともいい感じだった。こんな話しかたをする人は、きっと職員はもとより区民にも親しまれているのだろうなと思った。
交流の中止で、各町村の若い職員から見聞を広げる場が失われることは残念に思う。また、15町村が一つにまとまり大きな特別区と付き合うことの難しさも感じた。

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